上杉謙信公
上杉謙信公(1530~1578) は、長年内乱が続いていた越後を統一し、国の繁栄に尽くした一方で、武田信玄や織田信長などの名だたる武将と、生涯で70あまりもの戦を行った、戦国時代を代表する武将です。
謙信公と栃尾の関りは大変深く、14歳の若さで栃尾城に入城したあと、19歳で春日山城へ上るまでの青年期をこの栃尾で過ごし、義の心を学び、立派な武将へと成長してゆきました。栃尾時代の謙信公の名前は、正しくは「長尾景虎」ですが、このサイトでは特別な場合を除き、分かりやすくするため「上杉謙信」と表記しています。
そんな謙信公旗揚げの地である栃尾には、今でもゆかりの史跡が数多く残っています。
火伏せの神「秋葉三尺坊大権現」
秋葉(あきば)公園内に位置する秋葉神社は、1551年(天文20年)上杉謙信公が常安寺の守護神として、楡原の蔵王堂より現在の場所に移したとされています。
火災を防ぐ火伏せ(ひぶせ)の神として名高く、江戸時代に幕府から「火防日本総本廟秋葉三尺坊大権現」の称号を与えられ、多くの崇敬を集めています。
秋葉神社の奥の院は、幕末・明治初期に、越後国(現在の新潟県)を中心に活動した、日本のミケランジェロとも言われる宮彫りの彫物師、石川雲蝶の総標彫りで埋め尽くされており、公園内には上杉謙信公の銅像も鎮座しています。
歴史の記憶が残る貴重な場所として、歴史好きをはじめ、地域内外の多くの人から親しまれています。
※栃尾では「秋葉」は「あきば」と読みます。
秋葉神社(秋葉公園)長岡市谷内2-8-5
火伏せの神「秋葉三尺坊大権現」
火災を防ぐ火伏せ(ひぶせ)の神として名高く、江戸時代に幕府から「火防日本総本廟秋葉三尺坊大権現」の称号を与えられ、多くの崇敬を集めています。
秋葉神社の奥の院は、幕末・明治初期に、越後国(現在の新潟県)を中心に活動した、日本のミケランジェロとも言われる宮彫りの彫物師、石川雲蝶の総標彫りで埋め尽くされており、公園内には上杉謙信公の銅像も鎮座しています。
歴史の記憶が残る貴重な場所として、歴史好きをはじめ、地域内外の多くの人から親しまれています。
※栃尾では「秋葉」は「あきば」と読みます。
謙信公ゆかりの古刹「常安寺」
1547年(天文16年)長尾景虎(後の上杉謙信公)が開基となり、創建、寄進したお寺です。
当時、越後国主であった謙信公が創建した常安寺は、七堂伽藍を配した豪華な佇まいだったといわれています。なお、現在の本堂は昭和54年に再建されたものです。
新潟県の文化財に指定される、謙信公直筆による五言対句や兜の前立てなど、貴重な遺品が数多く残っています。
*現在、文化財の一般公開はされていません。
常安寺 長岡市谷内2-7-7 0258-52-2318
謙信公ゆかりの古刹「常安寺」
当時、越後国主であった謙信公が創建した常安寺は、七堂伽藍を配した豪華な佇まいだったといわれています。なお、現在の本堂は昭和 54年に再建されたものです。
新潟県の文化財に指定される、謙信公直筆による五言対句や兜の前立てなど、貴重な遺品が数多く残っています。
*現在、文化財の一般公開はされていません。
謙信公をお祀りする「謙信廟」
栃尾城跡や秋葉神社を見渡すことのできる「長岡市栃尾美術館」の一画に、謙信公の御廟所(ごびょうしょ)があります。
これは謙信廟(けんしんびょう)と呼ばれ、大正4年(1915)米沢の上杉家より謙信公の霊牌を分霊し祀られた御廟所です。
また、この謙信廟と並んで、謙信公が栃尾にいた当時の学問の師、門察和尚の碑が建っています。
門察和尚は、比類なき学識で、瑞麟寺五世として常安寺を開山された僧侶です。
謙信廟(栃尾美術館敷地内玄関前)
長岡市上の原町1-13 0258-53-6300 月曜休館(臨時休館あり)
謙信公をお祀りする「謙信廟」
これは謙信廟(けんしんびょう)と呼ばれ、大正4年( 1915)米沢の上杉家より謙信公の霊牌を分霊し祀られた御廟所です。
また、この謙信廟と並んで、謙信公が栃尾にいた当時の学問の師、門察和尚の碑が建っています。
門察和尚は、比類なき学識で、瑞麟寺五世として常安寺を開山された僧侶です。
謙信廟(栃尾美術館敷地内玄関前)
長岡市上の原町1-13 0258-53-6300 月曜休館(臨時休館あり)
「義の心」を育んだ「瑞麟寺跡」
瑞麟寺は、永正15年(1518)に開創。
転輪寺三世の湖山和尚によって開山された禅宗の寺です。
栃尾で青年時代を過ごした上杉謙信公は、軍事の傍らこの寺で修行を続け「義」の信念を見いだします。
戦乱で建物が焼失し、長年その場所が不明でしたが、大正時代に市内栃尾宮沢にあったことが判明し、今は、瑞麟寺跡を示す石碑が建立されています。
瑞麟寺跡 長岡市栃尾宮沢
「義の心」を育んだ「瑞麟寺跡」
転輪寺三世の湖山和尚によ
栃尾で青年時代を過ごした上杉謙信公は、軍事の傍らこの寺で修行を続け「義」の信念を見いだします。
戦乱で建物が焼失し、長年その場所が不明でしたが、大正時代に市内栃尾宮沢にあったことが判明し、今は、瑞麟寺跡を示す石碑が建立されています。
越後の名城「栃尾城」
栃尾城(新潟県指定城跡)は、長尾景虎(後の上杉謙信公)が栃尾から春日城へ移るまでの青年期を過ごした山城です。
標高228mの鶴城山に、鶴が羽を広げたような険しいU字の山稜を活かし築かれた栃尾城は、別名「鶴舞城」とも呼ばれています。
大空堀や馬場跡など、当時の遺構が色濃く残り、栃尾の市街地を一望できる本丸跡(山頂)に登れば、謙信公が見た景色を感じることができます。
「栃尾城跡ウォーキング」ページはこちら
栃尾城跡
長岡市栃尾町
越後の名城「栃尾城」
標高228mの鶴城山に、鶴が羽を広げたような険しいU字の山稜を活かし築かれた栃尾城は、別名「鶴舞城」とも呼ばれています。
大空堀や馬場跡など、当時の遺構が色濃く残り、栃尾の市街地を一望できる本丸跡(山頂)に登れば、謙信公が見た景色を感じることができます。
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