「静御前の墓」と源義経にまつわる伝説
栃尾には、義経の愛妾・静御前の墓、弓の名手那須与一ゆかりの館跡の言い伝え、義経の忠臣佐藤継信忠信兄弟の母親・音羽御前(おとわごぜん)ゆかりの瑞雲寺と羽黒神社、石峠の大石に残る弁慶の足跡など、源平の合戦で活躍した源義経にゆかりの深い人たちの伝承が多く残っています。
源義経の愛妾「静御前の墓」
栃堀の高徳寺(現在は廃寺)付近の林の中に、古い宝篋印塔(ほうきょういんとう)があり、源義経の愛妾・静御前のお墓だと伝わっています。
静御前は奥州平泉に逃れた義経を追ってここ栃尾の栃堀までたどり着いたが、病により建久元年(1190)4月28日亡くなりました。残された二人の従僕は、村人と話し合い埋葬し塚を建て、ふもとに草庵を結び「松寿庵」と名付け、剃髪し菩提を弔いました。
後に、このことを鎌倉将軍・源頼嗣の知るところとなり、建長寺の開山・蘭渓道隆を下し「松寿庵」の場所に堂宇を建て「松寿峯耕徳寺」と名付け、永く冥福を祈るために周囲に15町歩の土地を寄進しました。また蘭渓道隆は静御前に「源貞院殿松寿妙栄大姉」の法名を送りました。寺には蘭渓道隆直筆の位牌や静御前の遺物がありましたが戦乱の中で焼失したといわれています。その後、山腹に移転し高徳寺と改名されました。
静御前の墓 長岡市栃堀
源義経の愛妾「静御前の墓」
静御前は奥州平泉に逃れた義経を追ってここ栃尾の栃堀までたどり着いたが、病により建久元年 (1190)4月 28日亡くなりました。残された二人の従僕は、村人と話し合い埋葬し塚を建て、ふもとに草庵を結び「松寿庵」と名付け、剃髪し菩提を弔いました。
後に、このことを鎌倉将軍・源頼嗣の知るところとなり、建長寺の開山・蘭渓道隆を下し「松寿庵」の場所に堂宇を建て「松寿峯耕徳寺」と名付け、永く冥福を祈るために周囲に 15町歩の土地を寄進しました。また蘭渓道隆は静御前に「源貞院松殿寿妙栄大姉」の法名を送りました。寺には蘭渓道隆直筆の位牌や静御前の遺物がありましたが戦乱の中で焼失したといわれています。その後、山腹に移転し高徳寺と改名されました。
那須与一が住んだと伝わる「古戸城跡」
静御前の墓から刈谷田川対岸の赤谷を眺めると、那須与一が住んだという館跡の「古戸が池」(現在は水田)があります。
屋島の戦いで平家の女官のかかげた扇を見事に打ち落とした弓の名手、那須与一は讒言(ざんげん)により流され、後に栃尾に移り住み赤谷の古城に居を構えました。彼は讒言が偽りであったことからやがて故郷の那須郷に帰ったが、息子夫婦はこの地にとどまりました。やがて二人に子供が授かり、産湯に社寺の手水舎(てみずや)を使ったことから、一夜のうちに館が水没して、その跡に大きな池、古戸が池ができました。満月の夜になると赤ん坊を抱いた母親の亡霊が湖上に現れたといいます。
古戸城跡(古戸が池跡) 長岡市小向
那須与一が住んだと伝わる「古戸城址」
静御前の墓から刈谷田川対岸の赤谷を眺めると、那須与一が住んだという館跡の「古戸が池」(現在は水田)があります。
屋島の戦いで平家の女官のかかげた扇を見事に打ち落とした弓の名手、那須与一は讒言(ざんげん)により流され、後に栃尾に移り住み赤谷の古城に居を構えました。彼は讒言が偽りであったことからやがて故郷の那須郷に帰ったが、息子夫婦はこの地にとどまりました。やがて二人に子供が授かり、産湯に社寺の手水舎(てみずや)を使ったことから、一夜のうちに館が水没して、その跡に大きな池、古戸が池ができました。満月の夜になると赤ん坊を抱いた母親の亡霊が湖上に現れたといいます。
音羽御前ゆかりの古刹「瑞雲寺」
音羽御前は、福島県飯坂の大鳥城主・佐藤基信の妻で、源義経の忠臣として知られる佐藤継信・忠信兄弟の母親です。
息子たちの安否を尋ねる旅に出た音羽御前は、出雲崎・寺泊に草庵を結び日ごろより信仰していた羽黒大権現(十一面観音)を祀りました。ところが継信は屋島の戦いで、忠信は都で壮絶な最期を遂げました。その知らせを聞き悲嘆に暮れていた音羽御前の枕元に羽黒大権現が現れ、「この近辺に霊場がある。その地に我を祀れ。」とお告げがあり、文治3年(1187)、栃尾の小貫に侍仏堂(瑞雲庵)を建て羽黒大権現を祀って供養しました。以来、その霊験あらたかなことが広く知れ渡り、方々から人々が参詣に訪れ、上杉謙信公も栃尾城在城のおりには、度々参籠したと伝わっています。
その後、瑞雲庵は寛永10年(1633)に禅僧を迎えて瑞雲寺に改称。開基・檀越は阪神電鉄やアサヒビールの創始者・外山脩造を生んだ肝煎りの外山家。伽藍は築300年で江戸時代初期の禅寺の豪壮な禅宗形式を今に残します。
瑞雲寺 長岡市小貫3028 0258-52-3530
音羽御前ゆかりの古刹「瑞雲寺」
息子たちの安否を尋ねる旅に出た音羽御前は、出雲崎・寺泊に草庵を結び日ごろより信仰していた羽黒大権現 (十一面観音 )を祀りました。ところが継信は屋島の戦いで、忠信は都で壮絶な最期を遂げました。その知らせを聞き悲嘆に暮れていた音羽御前の枕元に羽黒大権現が現れ、「この近辺に霊場がある。その地に我を祀れ。」とお告げがあり、文治3年 (1187)、栃尾の小貫に侍仏堂(瑞雲庵)を建て羽黒大権現を祀って供養しました。以来、その霊験あらたかなことが広く知れ渡り、方々から人々が参詣に訪れ、上杉謙信公も栃尾城在城のおりには、度々参籠したと伝わっています。
その後、瑞雲庵は寛永 10年 (1633)に禅僧を迎えて瑞雲寺に改称。開基・檀越は阪神電鉄やアサヒビールの創始者・外山脩造を生んだ肝煎りの外山家。伽藍は築 300年で江戸時代初期の禅寺の豪壮な禅宗形式を今に残します。
音羽御前が帰依した羽黒大権現を祀った「羽黒神社」
羽黒神社は音羽御前が帰依した羽黒大権現の本尊(十一面観音)を祀った外山家の屋敷神でした。外山家の私社であった羽黒神社が村の鎮守となって、享保12年(1727)現在の地に建立されると瑞雲寺が別当となり同社を管掌しました。明治維新を迎えると神仏分離令が施行され、瑞雲寺は羽黒神社の別当を辞任し、本尊や鰐口などの仏具は瑞雲寺に移転され現在に至ります。
おしくも江戸時代末期に焼失してしまいましたが、現在の社殿はその直後に再建され、みごとな宮彫りが施されています。
宮彫りの見処は、夜な夜な神社裏にある血の池に水を飲みに行くという噂から、五寸釘で足を打ち止められたと伝わる、海老虹梁(えびこうりょう)に絡みつく巨大な双龍です。細貝丈八によるその素晴らしい彫りをぜひご覧ください。社殿の垂木に連なる獏(ばく)と唐獅子も必見です。
境内には、羽黒神社のある小貫の出身で、アサヒビールを創業し阪神電鉄の初代社長となるなど関西財界の礎を築いた外山脩造翁の墓碣銘(ぼけつめい)や、市文化財の大欅や樫木、耳の神の正倉神社、龍が飲みに行った血の池など見どころ豊富です。
羽黒神社は、平成31年、多額に寄進をいただき大規模修繕を実施いたしました。本堂の天井を飾る49枚の色鮮やかな花々の天井絵は、その際栃尾の画家7名により新調されたものです。
羽黒神社 長岡市小貫
音羽御前が帰依した羽黒大権現を祀った「羽黒神社」
おしくも江戸時代末期に焼失してしまいましたが、現在の社殿はその直後に再建され、みごとな宮彫りが施されています。
宮彫りの見処は、夜な夜な神社裏にある血の池に水を飲みに行くという噂から、五寸釘で足を打ち止められたと伝わる、海老虹梁(えびこうりょう)に絡みつく巨大な双龍です。細貝丈八によるその素晴らしい彫りをぜひご覧ください。社殿の垂木に連なる獏 (ばく )と唐獅子も必見です。
境内には、羽黒神社のある小貫の出身で、アサヒビールを創業し阪神電鉄の初代社長となるなど関西財界の礎を築いた外山脩造翁の墓碣銘(ぼけつめい)や、市文化財の大欅や樫木、耳の神の正倉神社、龍が飲みに行った血の池など見どころ豊富です。
羽黒神社は、平成 31年、多額に寄進をいただき大規模修繕を実施いたしました。本堂の天井を飾る 49枚の色鮮やかな花々の天井絵は、その際栃尾の画家7名により新調されたものです。
石峠の大石に残る「弁慶の足跡」
石峠は、栃尾地域と南魚沼市との市境、国道290号石峠トンネルの旧道石峠街道にあたり、歴史にも登場する交通の要衝でした。大石は峠から少し栃尾側にあり、大石からは弥彦山や新潟市まで眺望することができます。
地元の栗山沢区には、義経主従が奥州へ逃れるため石峠を通った際、弁慶が山頂の大石に足跡を付けたと伝わっています。
源平の時代から800年あまり経った現在では、どれが弁慶の足跡なのか定かではありませんが、弁慶らしい豪快な逸話として語り継がれています。
大石までは、栗山沢バス停広場から徒歩約40分の道のりです。
石峠の大石 長岡市栗山沢
石峠の大石に残る「弁慶の足跡」
地元の栗山沢区には、義経主従が奥州へ逃れるため石峠を通った際、弁慶が山頂の大石に足跡を付けたと伝わっています。
源平の時代から 800年あまり経った現在では、どれが弁慶の足跡なのか定かではありませんが、弁慶らしい豪快な逸話として語り継がれています。
大石までは、栗山沢バス停広場から徒歩約 40分の道のりです。