ALBUM
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石仏

石仏

栃尾には道祖神をはじめ庚申塔や馬頭観音、善光寺三尊など多種多様な石仏があります。中には全国的にもめずらしい石仏もいくつか存在し、「石仏の里」「石仏の宝庫」と称され全国にも知られ、多くの愛好者が訪れています。
特に道祖神像については新潟県内の約400基のうち、栃尾地域には42か所120基も現存し、本県最大の集積地でもあります。その多くは女性が徳利、男性が盃をもつ祝言の仲人姿ですが、中には抱きしめ合う様子を表した大胆なものやひっそりと寄り添い手を握りあうなど、ユニークな像も見られます。

神仏のイメージを変える石仏

 
今はなき樹齢400年を超える老杉の根元には、恥じらう女神を男神がひしと抱きしめ唇を交わし、大胆な愛の営みをする神々の姿が彫られた石仏があります。
半蔵金(はんぞうがね)の高台に建つ守門神社境内に祀られている道祖神・胞姫(えなひめ)さまです。
道祖神という硬い名前とは程遠い、実に人間的な微笑ましい神々です。初めて出会ったときは、神仏のイメージとはあまりにかけ離れていたので、「えっ、これがご神体?」と思わず声をあげてしまったほどです。あのがんじがらめの封建時代によくぞやったと驚嘆するばかりです。

胞姫様

胞姫様/長岡市半蔵金

神仏のイメージを変える石仏

 

今はなき樹齢 400年を超え
胞姫様

胞姫様/長岡市半蔵金

る老杉の根元には、恥じらう女神を男神がひしと抱きしめ唇を交わし、大胆な愛の営みをする神々の姿が彫られた石仏があります。
半蔵金(はんぞうがね)の高台に建つ守門神社境内に祀られている道祖神・胞姫 (えなひめ )さまです。
道祖神という硬い名前とは程遠い、実に人間的な微笑ましい神々です。初めて出会ったときは、神仏のイメージとはあまりにかけ離れていたので、「えっ、これがご神体?」と思わず声をあげてしまったほどです。あのがんじがらめの封建時代によくぞやったと驚嘆するばかりです。
ほだれ神社の石仏群

ほだれ神社の石仏群/長岡市来伝

現実の生活の中での切実な悩みを救う神

 
道祖神は「村境にあって外敵の侵入や疫病の流行を防ぐ」というのが定説となっていますが、栃尾においては定説とは大きく異なり「さえの神さま」「きんかんさま」「ほだれさま」などと呼ばれ、しもの病(性病)や子宝・縁結びの神、耳だれ(中耳炎)の神という現実の生活の中での切実な悩みを救う神として信仰されてきました。
江戸時代にあっては納税が村単位の皆済制度であったことから、子供に恵まれないことは立派な離縁の理由となり得ました。そうした不妊や性病など、人にも話せない不安や苦しみからなんとしてでも逃れたい一心で道祖神が造立されたのです。いわば庶民の救世主でした。したがって村境での防役といった公共的な目的での建立ではなく、個人が人知れずにひっそりと造立したものでした。
今日、石仏の中でも愛好者の多い道祖神ですが、愛らしいその姿とは裏腹に、封建社会の中で、当時の人々のどうにもならない切ない心があったことも深く知っていただければと思います。

現実の生活の中での切実な悩みを救う神

 

道祖神は「村境にあっ
ほだれ神社の石仏群

ほだれ神社の石仏群/長岡市来伝

て外敵の侵入や疫病の流行を防ぐ」というのが定説となっていますが、栃尾においては定説とは大きく異なり「さえの神さま」「きんかんさま」「ほだれさま」などと呼ばれ、しもの病(性病)や子宝・縁結びの神、耳だれ(中耳炎)の神という現実の生活の中での切実な悩みを救う神として信仰されてきました。
江戸時代にあっては納税が村単位の皆済制度であったことから、子供に恵まれないことは立派な離縁の理由となり得ました。そうした不妊や性病など、人にも話せない不安や苦しみからなんとしてでも逃れたい一心で道祖神が造立されたのです。いわば庶民の救世主でした。したがって村境での防役といった公共的な目的での建立ではなく、個人が人知れずにひっそりと造立したものでした。
今日、石仏の中でも愛好者の多い道祖神ですが、愛らしいその姿とは裏腹に、封建社会の中で、当時の人々のどうにもならない切ない心があったことも深く知っていただければと思います。

目に見えな宗教革命

 
神社仏閣が数多くあり仏像も多いはずなのに、なぜ石仏は造立されたのでしょうか? 本質的な問題は実はここにあるといっても過言ではないのです。
仏教の教えや仏像は、人々の苦しみや悲しみを癒し、生きる勇気を与える存在でなければなりません。仏師もそうした思いで、より多くの人々に拝んでもらうことを願って仏像を刻んだのです。
しかし、仏像の造立といえば貴族や豪族、寺院といった一部の特権階級のものとしてなされてきました。したがって仏像も当然のことながら限られた人々に独占され寺院の奥に祀られてきました。はなはだしきは「秘仏」にし、人々の参詣を断絶することさえあったのです。 結果、仏師の思いとは裏腹に、仏像は一般の人々と無縁な敷居の高い所に鎮座し、自由に拝める存在とはならなかったのです。しかし、江戸時代に入ると寺檀制度が施行され、寺院は民衆に先祖供養の奨励をなし、墓地や仏壇に位牌をまつることを布教しました。人々はお墓を作る際、先祖供養に地蔵菩薩を造立し、それを機会に村々のはずれや村内のしかる場所にも造立をはじめました。つまり、庶民でも自らの信仰する仏像の造立ができることを発見したのです。こうして庶民は初めて自らが信仰する仏像を自らの手で造立し自由に拝める世界を見いだしたのです。言わば目に見えないところの大きな宗教革命といえるでしょう。その象徴が石仏だったのです。
世界に例のない路傍の石仏はかくして生まれ、特に医療の行き届きにくい山村に唯一の救いとして広まっていきました。そして、目には不動明王など一病に一仏が配されるほど多くの石仏が造立されたのでした。
こうした背景のもとに盆地の栃尾は長い時間の中に自らの石仏文化を築いて来ました。いま私たちはその長い時間の蓄積を眺めているのです。

目に見えない宗教革命

 

神社仏閣が数多くあり仏像
も多いはずなのに、なぜ石仏は造立されたのでしょうか? 本質的な問題は実はここにあるといっても過言ではないのです。
仏教の教えや仏像は、人々の苦しみや悲しみを癒し、生きる勇気を与える存在でなければなりません。仏師もそうした思いで、より多くの人々に拝んでもらうことを願って仏像を刻んだのです。
しかし、仏像の造立といえば貴族や豪族、寺院といった一部の特権階級のものとしてなされてきました。したがって仏像も当然のことながら限られた人々に独占され寺院の奥に祀られてきました。はなはだしきは「秘仏」にし、人々の参詣を断絶することさえあったのです。 結果、仏師の思いとは裏腹に、仏像は一般の人々と無縁な敷居の高い所に鎮座し、自由に拝める存在とはならなかったのです。しかし、江戸時代に入ると寺檀制度が施行され、寺院は民衆に先祖供養の奨励をなし、墓地や仏壇に位牌をまつることを布教しました。人々はお墓を作る際、先祖供養に地蔵菩薩を造立し、それを機会に村々のはずれや村内のしかる場所にも造立をはじめました。つまり、庶民でも自らの信仰する仏像の造立ができることを発見したのです。こうして庶民は初めて自らが信仰する仏像を自らの手で造立し自由に拝める世界を見いだしたのです。言わば目に見えないところの大きな宗教革命といえるでしょう。その象徴が石仏だったのです。
世界に例のない路傍の石仏はかくして生まれ、特に医療の行き届きにくい山村に唯一の救いとして広まっていきました。そして、目には不動明王など一病に一仏が配されるほど多くの石仏が造立されたのでした。
こうした背景のもとに盆地の栃尾は長い時間の中に自らの石仏文化を築いて来ました。いま私たちはその長い時間の蓄積を眺めているのです。
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