南北朝時代の創始といわれ、標高227mの鶴城山の頂上に本丸、両翼に二の丸、松の丸や狼煙台を配置した県内でも指折りの城郭です。県指定の文化財にも指定されており、多くの遺構が残されています。
栃尾の人たちからは親しみを込めて「城山」と呼ばれています。
本丸からは栃尾の市街地とともに、謙信公も眺めたであろう守門岳をはじめとする山々を一望することができます。
栃尾城跡ウォーキング おすすめコース
栃尾城跡ウォーキング
おすすめコース
石段を登ると緑濃い杉木立に囲まれ、静寂が身を包みます。
創立期は明かではありませんが、古くは栃尾城の鎮守として置かれたといわれています。
境内には他に、稲荷神社、琴平社、松尾社(醸造、酒造りの神)等が祀られています。
足元が滑りますので、運動靴など山歩きに適した靴をご用意ください。
栃尾城の大広場。将兵の訓練などが行われた場所と考えられます。
千人溜りの手前には、三の丸まで続く大空濠(おおからぼり)があります。
わずか14歳の長尾景虎(上杉謙信公)は国主で兄の晴景の命を受け、還俗し古志・蒲原の郡司として栃尾に下向しました。
栃尾城主・本庄実乃(さねより) の補翼により中越の動揺を静めて名を馳せました。
その後栃尾城は、謙信公病没による跡目争いの御館の乱において、城主・本庄秀綱が上杉景虎方についたため、上杉景勝方に攻め滅ぼされ、上杉氏の番城として景勝揮下の諸将が交替で在城しました。
慶長3年上杉氏の会津国替の後は、新領主掘秀治の将、神子田長門守(八郎右ェ門)が在城しましたが、慶長15年掘氏の改易に伴い、ついに廃城となりました。
険しい自然を利用し本丸以下の諸曲輪を一列に並べ、東側中腹に広大な千人溜りを備えた縄張りや、山腹まで掘通した大規模な縦空濠(たてからぼり)など、戦国時代の山城遺構の好例といえます。
なお、この城は籠城用の要害であり、城主の居宅は現在の栃尾大野町にありました。
④諏訪神社
健脚の方は、狼煙台まで足を延ばしたり、松の丸、三の丸、五島丸、長峰と行き、金井曲輪を経て諏訪神社に戻ってもよいでしょう。
松の丸へ行くには、トイレの前を通って本丸の後ろ側の道を行きます。
栃尾城跡ウォーキング お気軽コース
栃尾城跡ウォーキング
お気軽コース
栃尾城跡裏手の城山駐車場から、少し急な登山道を徒歩約7分、ゆっくり登っても約10分で本丸に到着するお手軽なコースです。足元が滑りますので、運動靴など山歩きに適した靴をご用意ください。
駐車場までの道は林道ですので農耕車優先でお願いします。
わずか14歳の長尾景虎(上杉謙信公)は国主で兄の晴景の命を受け、還俗(げんぞく)し古志・蒲原の郡司として栃尾に下向、19歳で春日山城へ上るまでの青年期を過ごしました。
栃尾では、瑞麟寺で義の心を育む一方、軍事面では栃尾城主・本庄実乃(さねより)の補翼のもと初陣を飾り、中越の動揺を静めて名を馳せました。栃尾は「上杉謙信公旗揚げの地」です。
その後の栃尾城は、謙信公病没による跡目争いの御館の乱において、城主・本庄秀綱が上杉景虎方についたため、上杉景勝方に攻め滅ぼされ、上杉氏の番城として景勝揮下の諸将が交替で在城しました。
慶長3年上杉氏の会津国替の後は、新領主掘秀治の将、神子田長門守(八郎右ェ門)が在城しましたが、慶長15年掘氏の改易に伴い、ついに廃城となりました。
険しい自然を利用し本丸以下の諸曲輪を一列に並べ、東側中腹に広大な千人溜りを備えた縄張りや、山腹まで掘通した大規模な縦空濠(たてからぼり)など、戦国時代の山城遺構の好例といえます。
二の丸は、本丸に次ぐ重要な場所です。空濠でまわりが区切られており、独立した防衛遺構となっています。
なお、この城は籠城用の要害であり、城主の居宅は現在の栃尾大野町にありました。
下りは急ですので足元にお気を付けください。