とちおロゴ
上杉謙信公旗揚げの地、
    新潟県長岡市

栃尾観光協会タイトル

テキストサイズ 小 |中 |大 |




HOME > 歴史/伝説/史跡 > 大河ドラマ「天地人」特集

天地人特集バナー 栃尾の「天地人」は他と少し趣きが異なります。なぜなら上杉謙信公亡き後勃発した上杉景虎と上杉景勝(直江兼続)との後継争い「御館の乱」において、景虎方に組した栃尾・長岡の村々と栃尾城・栖吉城は焼き払われたからです。つまり大河ドラマの主人公「直江兼続」は栃尾にとって敵方でした。しかしながら、大河ドラマでも語られているように兼続にも謙信公の「義の心」はしっかりと受け継がれいます。そして栃尾は謙信公が青年期を過ごした地であり「義の心 発祥の地」なのです。我々「栃尾」から見た、もうひとつの「天地人」をあらためて検証して見ましょう。

1,「義の心」発祥の地、栃尾

上杉謙信公の原点、栃尾

 中世、戦国時代の常に謀略と欺瞞(ぎまん)の渦巻く中で、聖将と崇められ、「義」を貫き、戦国の覇者、織田信長をも震撼させた猛虎のごとき上杉謙信公。その「義の心」を受け継ぎ、「愛」を標榜し多事多難な政権の変転の中で上杉家の舵取りをなし、上杉家を支えた直江兼続。
 その二人の類い稀な英雄に流れる「義の心」を育んだ地、栃尾。ここでは長尾景虎(後の上杉謙信公)が多感な青年期を過ごした栃尾の状況と修行を行った瑞麟寺から「義の心」とは何かを考えたい。
※謙信公の名前は、虎千代・長尾景虎・宗心・上杉政虎・上杉輝虎・不識庵謙信となります。ここでの「景虎」は謙信公の青年期の名前「長尾景虎」です。大河ドラマで「景勝・兼続」と御館の乱で対決する「上杉景虎」も「景虎」ですが、それは上杉家に人質として差し出された北条氏秀を、謙信公が養子に迎え「景虎」と名乗らせたため同じ名前となったのです。

【1】上杉謙信公(長尾景虎)が青年期を過ごした栃尾の状況

 「そこもとの様子をこまごま知らせてくれて満足のいたりである。 ~中略~ 栃尾の陣所については皆と相談して堅固にすることが肝心である。 ~中略~ なお景虎が近日中に出撃とのこと、勝利は眼前であろう。 ~以下略~ 晴景」
 天文12年(1543年)秋、14歳の景虎は守護代の兄・晴景の命により中郡の郡司として栖吉(すよし)城背後にある栃尾城に入城した。越後の混乱は依然として治まらず、しかも病気がちな晴景一人では成し得ない状況にあった。そこで、景虎の登場となった。ここに「大儀なき戦はしない」という崇高な信条をもって、利益や功名を争う相手に一糸乱れぬ統率力を発揮し破竹の強さを示した戦国の雄、上杉謙信公の誕生をみたのである。
 栃尾に乗り込んだ景虎の支配というのは、古志長尾氏の郡司支配の延長、あるいは継承と思われる。迎えたのは栃尾城主・本庄実乃(さねより)。先の書状は晴景から実乃に宛てた手紙である。国主の晴景とともに手を携えて越後を治めてゆくための布石であったとみられる。
 とはいえ、景虎は栃尾入部時の状況を「幼年の時分、古志郡に下ったところ、自分が若年であるのを見かねて近郷の者共が栃尾城に向って戦を仕掛けたり、自分の命に背いて反抗する者など時に防戦するようなこともあった。」と後に述懐しているように慌ただしい事態の連続であった。
 国主の名代、郡司の景虎が直接下向したことは、在地豪族の均衡を破る一大事であったに違いない。江戸時代に書かれた戦記物では景虎に襲いかかったのは三条の長尾俊景であったと伝えているが、三条はむしろ景虎の頼るべき拠点であった。景虎が相手としなければならなかったのは在来の豪族や隣接する魚沼勢であったと思われる。
 景虎はこうした勢力を本庄実乃はじめ柏崎の北条高広などの合力を得て制圧していく一方、三条の本成寺や栃尾の守門大明神、瑞麟寺などに安堵状や所領の寄進状・郡司不入の特権などを与え、郡司としての権力を行使し、着々と地盤を固めていった。

【2】郡司から国主へ、景虎を支えた栖吉・栃尾衆

 景虎の名前を天下に轟かせたのが、上杉房定(ふささだ・房能の父)時代から守護に仕えてきた老臣、弥彦山麓・黒滝城の黒田秀忠の反乱の鎮圧であった。 乱世になればなるほど、平和を築く強力な権力者の出現が求められることから、衆望は次第に栃尾の景虎に集まり、景虎を中核として一大勢力が誕生していった。景虎を新しい国主の座へと推したのは栃尾の本庄実乃はもとより、栖吉の長尾景信や与板の直江実綱(後の直江兼続の義父)、三条の山吉氏など中郡の実力者であった。こうして景虎は守護代晴景に代わって国主の座につき、年が改まる直前の十二月の晦日に春日山城に堂々と入城したのであった。時に景虎19歳。政務を司ったのは、育ての親ともいうべき栃尾城主・本庄実乃、与板城主・直江実綱、府内で財政を司っていた大熊氏の三奉行であった。そして膝下には景虎と共に生き、立ち働いてきた栖吉衆・栃尾衆が身辺を固めた。こうして景虎を中核として一大勢力が中越地方の武士を中心に出来上がったのである。いうならば、景虎は国主としてその身は上越の春日山にありながらも、その心は常に若き日の故郷、中越の長岡・栃尾にあったのである。

栃尾における景虎の役割

【3】景虎の葛藤と瑞麟寺での参禅、「義の心」の形成へ

 景虎の心情は果たしてどうだったのであろうか。
 若干14歳の景虎は栃尾に到着するやいなや、切迫した戦乱の渦の中に入り込まされた。おそらくは十分な休息や指導を受けることなく中郡のシンボルとして初陣を飾り戦場に駆り出されたことであろう。それまでの林泉寺(幼名・虎千代時代の7歳~14歳まで預けられた寺)における仏道修行とはうって変わって、目を覆うばかりの凄惨な世界に直面したのである。聞きしに勝るまさに180度異なった地獄を見るような世界であったに違いない。青年期という人生で最も純で多感なこの時期、しかも人一倍仏教に傾倒していた景虎にとって、「人を殺すなかれ」と説く仏教の思想と、人家を焼き残虐を極める戦という相反する現実に身をおいた葛藤は想像を絶するものがあったに違いない。その葛藤をどう解決するか、それが景虎にとっての最大の課題ではなかったか。
 幸いにして栃尾には長尾氏と関係の深い、旧中頸城(なかくびき)郡吉川町の転輪寺の末寺、瑞麟寺(ずいりんじ)が宮沢に建立されていた。永正15年(1518年)に創立、開山は転輪寺三世湖山性東和尚である。その5年後の大永3年(1523年)には檀越の道見より梵鐘が寄進されている。建立記念ということであろうか。湖山和尚は景虎の父・長尾為景と強い信頼関係で結ばれており、転輪寺住職の時代には、転輪寺の寺領を安堵されたばかりか、諸役の免除、郡司不入という特別な保護を受けるほどであった。その湖山和尚が転輪寺から長泉寺に転住し、さらにこの寺を隠退(東堂)した時に創設されたのが栃尾の瑞麟寺である。付随して23石もの寺領が寄進され、安堵されたのであった。
 景虎が栃尾に下向し、参禅した時代には既に湖山和尚は亡くなっていたが、瑞麟寺は開山の湖山和尚と父・為景が昵懇の間柄にあることから、景虎にとって最も心を許せる寺であったに違いない。そして、修行のかたわら学問を学ぶとともに住職から高い見識と禅の心について大いなる薫陶を受けたものと推測される。苦悩深き景虎にとって参禅や思索、住職との対話はいかに心を癒したことか。この悩みや葛藤の克服から、やがて、他の武将に見られない「義」を基本とした人生観を大悟したものと推測される。いわば瑞麟寺は上杉謙信公の「義」の精神発祥の寺といって良い。

【4】上杉謙信公の「義」とは何か

 上杉謙信公に関する書物の多くは、「義」について『儒教の「仁・義・礼・智・信」の「義」であり、それは「利」の対局に位置するもの』としている。しかし、謙信公の「義」とは禅の「第一義」つまり「究極の真理」に由来すると考えるのが妥当である。
 ここに有名な梁の武帝と達磨大師との問答がある。簡単にその内容を記してみよう。

梁の武帝と達磨大師との問答

 何故に「義」がこの「第一義」から来たのかは、上杉謙信公の号がこの問答の「不識」に由来する「不識庵」であることからも推察されよう。

2,御館の乱、景勝・兼続に敵対した長岡・栃尾の運命は…

戦火の中の長岡

 長岡の歴史をひもとくと「戦災と復興の繰り返しの町」と表現できる。京都といった特別の地を除けば、おそらく全国でも稀な地であろう。その中でも特に大きな騒乱を挙げると、次の三つである。
  ①「御館の乱」での、上杉景勝軍の総攻撃による栖吉城・栃尾城の落城
  ②「戊辰戦争」での、官軍による長岡城陥落
  ③「太平洋戦争」での、米軍の空襲
 長岡は3回とも歴史の節目といえる戦乱の渦に巻き込まれたわけだが、ここでは、①の「御館の乱」を取り上げる。長岡の歴史に重大な意味をもつ事件ではあるが、戊辰戦争や太平洋戦争に比べ、長岡で語られる機会は決して多くはない。そこで、NHK大河ドラマ「天地人」での直江兼続が世上で盛り上がっていることを機として、本稿ではその背景となった歴史、長岡との関わりの構図から考えてみたい。

【1】上杉謙信公急逝による後継者争い

 「御館の乱」とは、簡単にいえば天正6年(1578年)に上杉謙信公が亡くなった直後に起こった「越後の主導権争い」である。
 天正6年3月9日、謙信公は厠で倒れ、人事不省のまま不帰の客となった。謙信公には実子が無く、しかも後継者を定めないまま急逝したのであるから、混乱を引き起こしたのは当然である。
秋葉公園 上杉謙信銅像 当時、春日山城には謙信公の養子が二人いた。三郎景虎と喜平次景勝である。先に養子となったのは上田(現在の南魚沼市六日町)の長尾政景の息子(謙信公の甥)・景勝であり一門筆頭の地位にあった。一方、景虎は、小田原の北条氏康の七男で氏秀といい、元亀元年(1570年)の越後と小田原の講和にあたり人質として貰い受けたものである。謙信公は氏秀に自分の名前「景虎」を名乗らせ、長尾政景の娘(謙信公の姪)を妻に娶らせた。
 両者が謙信公の後継の座を巡り、本来であれば重臣の会議をもって後継者を決めるところである。ところが十分な会議を待たずして、景勝を盟主とする上田長尾氏がいち早く行動を起こした。機先を制して春日山城を占拠し、土蔵の大金を押さえて戦に突入したのである。
 当時の状況からして、おそらく会議が開かれれば、これまで政権の中枢を握ってきた古志長尾氏の側つまり景虎が国主となる可能性が濃厚であった。しかし、景勝の先制により春日山城を占拠され、景虎はやむなく府内・上杉憲政の館に移り抗争するに至った。
 当時の人はこの戦を「錯乱」などと呼んだが、景虎がかつての関東管領上杉憲政の館に入って戦ったことから、後世「御館の乱」と呼ばれるようになった。

【2】景勝と景虎とに越後の諸将が二分

越後の諸将はそれぞれの思惑から、景勝方、景虎方と分かれた。謙信公のもとで保たれていた均衡は一挙に崩壊し、家臣団は分裂した。いずれの方に組するか、その一つには、反北条派(この機に北条氏が越後に入り込むことには反対)と親北条派(景虎の実家・北条氏とその同盟を結んでいる武田勝頼の来援に期待)といった理由もあったが、両者の決定的対立は更に根が深く、歴史的なもので、遠く上杉謙信公の父・長尾為景にまで遡る。詳しくは文末「御館の乱の時代背景」を参照されたい。

両軍の勢力図

 戦いは当初、景虎方が優勢に展開し、栖吉城跡・栃尾城跡一進一退の攻防が続いたが、景勝は謙信公の遺した財宝を背景に武田勝頼と講和するなど、戦局を有利に展開していった。樋口兼続(後の直江兼続)の才覚が効を奏し、景虎方は敗色を濃くしていった。
 そうした中で、まず栖吉城主の上杉景信(旧姓長尾、謙信公より上杉姓を賜る)が戦死、ついで北条景広も戦死。一人、栃尾城主の本庄清七郎(実乃の息子)が奮戦するという状態になったが、やがて追い込まれて盟主の景虎が自害する。後継者争いということからすれば、これをもって戦いは終わったはずだが、そうはならず、ここから第二段階の戦いへと突入した。本当の敵は栃尾・長岡にあり「魚沼郡上田庄の上田長尾氏と古志郡の栖吉長尾氏との積年の抗争」の怨念が表面にあらわれてきたのである。


【3】名門・栖吉長尾氏の滅亡

 天正8年(1580年)3月、景勝は三条を攻撃したあと、2万の兵を率いて栃尾に向い、見附市田井の岩佐山(岩沢山)に陣をはると、栃尾城に一斉に総攻撃を加えた。その攻防について景勝は「栃尾に馬を進め、領内の家々を一軒も残さず焼き払って廃墟と化し、その上、根小屋へ押し寄せて放火し、城兵多数を討ち取った」と述べている。他の将兵の手紙によると「防備の手薄な土ヶ谷(つちがや)方面から隅曲輪を乗っ取り、本庄清四郎の墓栃尾城は落城、城主・本庄清七郎は山伝いに栖吉城に逃れた」という。(「上杉年譜」では「清七郎は夜城を出て、会津に出奔」とある。) 景勝は続いて5月には栃尾城と峰つづきの栖吉城を攻め、陥落させた。栖吉城における攻防は史料にはあらわれてこないが、規模も大きく難攻不落の城であったために水攻め、兵糧攻めに変えてやっと落とすことができたと伝えられている。
 かくして栃尾・長岡は壊滅的な打撃を受け、ほとんどの武士がいなくなり、代わりに上田庄の武士が支配することとなった。謙信公時代に政権の中枢にあった栖吉長尾氏と臣下の扱いを受けてきた上田長尾氏との関係は、まさに逆転したのであった。
 上杉の姓まで賜った名門、栖吉長尾氏はここに壊滅した。栖吉城趾の山頂付近に「清徳院殿天真妙尊大居士」という本庄清七郎の供養塔が建てられている。


【4】復興を遂げる不屈の精神

 政権を取った上杉景勝はそれからわずかして会津に転封、さらに米沢に移った。長岡にはその後、慶長15年(1610年)に堀氏が蔵王堂城主となり、さらに元和4年(1618年)には牧野氏が入封した。もしも、上杉景勝政権が長く続いたならば、かつて上田長尾氏が受けたと同様、長く辛い冬の日々を送ったことであろう。徳川氏の家臣、牧野氏が支配するに及んで、御舘の乱で荒廃した長岡は見事に復興を遂げた。
 「復興」ということでいえば、冒頭で長岡が遭遇した三つの騒乱を掲げたが、そのすべてで繰り返された。そして、御館の乱の約三百年後、武家政治終末においての②の戊辰戦争や③の太平洋戦争、いずれもが市の大半が灰燼に帰してしまうが、その度ごとに長岡は蘇り、さらなる発展を遂げた。こうした史実は、まさに長岡市は「不死鳥、フェニックス」の歴史がある町だということを物語っている。
 長岡は戦災のために「歴史的な遺産が少ない」といった声をよく聞く。しかし、度重なる壊滅的打撃を受けながらも不死鳥のように雄々しく蘇り今日の繁栄を作り上げた。この不屈の精神こそ長岡市民の誇りであり、大いなる遺産でもあろう。

●「御館の乱」の時代背景

 御館の乱は天正6年(1578年)に上杉謙信公が亡くなった直後に起こった越後の「主導権争い」である。表向きは二人の養子、景勝と景虎(北条氏秀)の争いであったが、その背後には謙信公の父・長尾為景の時代から離合集散を繰り返してきた魚沼郡上田庄の上田長尾氏と古志郡の栖吉長尾氏の根の深い確執の総決算でもあった。時代を追って検証してみよう。
 ※ここでの「景虎」は上杉謙信公です。謙信公は人質だった北条氏秀を養子に迎え「景虎」と名乗らせました。ちなみに謙信公の名前は、虎千代・長尾景虎・宗心・上杉政虎・上杉輝虎・不識庵謙信となります。

①越後にナショナリズムおこる関東管領=越後守護の支配体制の打破
 室町時代、越後の国は上杉家の事情から「関東管領家」と「越後守護家」によって知行されていた。地元においては管領家代官の上田長尾氏、守護代の蒲原(三条)長尾氏、古志(栖古)長尾氏の三氏が差配してきた。ところが謙信公の父・守護代の長尾為景は主君である上杉家に反旗を翻し、その関東管領=越後守護の支配体勢を壊し、地元の豪族による国人連合政権を築こうとして動いた。いわば下剋上である。結果、守護の上杉房能(ふさよし)は敗戦、自害。これに怒った関東管領の上杉顕定(あきさだ)が越後に越境、為景を討とうとした。顕定軍には上田長尾氏(房長)・栖吉長尾氏(房景)が、為景軍には蔵王堂長尾氏・三条長尾氏がついて相争った。やがて顕定軍の敗色が濃くなると上田長尾氏や栖吉長尾氏は為景軍につき、関東管領の上杉顕定は長森原(六日町)であえなく敗死したのであった。

②上条の乱
 つづいて柏崎上条城の上杉定憲(さだのり)が長尾為景打倒の戦いを起こした。定憲には上田長尾氏・揚北衆などが、長尾為景には三条長尾氏・栖吉長尾氏などがついた。

③長尾景虎(上杉謙信公)、中郡の郡司として栃尾に下向
 こうした状況の中で為景が没し、息子の長尾晴景(謙信公の兄)が後を継いだ。彼は守護の上杉定実(さだざね)を前面に立てて対立を和らげようとしたので、かつて為景の盟友の栖吉長尾氏らは主流から外れ、逆に上田長尾氏や揚北衆が発言権を増大していった。しかし、晴景の威令は届かなかった。こうした時に晴景の命を受けて弟の景虎(後の上杉謙信公)が栃尾に下向した。若干14歳、今日でいえば中学2年生という若さであった。景虎は栃尾城に入るや、方々から攻め寄せてきた敵を破り、その武勇ぶりは越後国内に広まった。

④景虎、クーデターにより春日山に登場
 この新進気鋭、知勇兼備な景虎を守護代にしようという運動が起こった。いわばクーデターである。当然、兄・晴景と弟・景虎の間は険悪となったが、守護の上杉定実の斡旋により晴景は景虎を養子とし隠居、景虎は19歳で家督を相続し守護代となり春日城に上った。側近には先に擁立劇を演じた栃尾城主・本庄実乃(さねより)をはじめ栖吉長尾氏がつき、腰まわり(旗本)も中郡の武将で固め、政治の中枢を司った。

⑤上田の長尾政景降伏、臣下の礼をとる
 景虎が国主となると、それに刃向かう長尾政景率いる上田勢は反乱軍となってしまった。政景は誓詞を出し降伏。政景は景虎に臣下の礼をとり、以降30年もの長い間中枢からも離れた存在となってしまった。上田衆が受けた屈辱は想像に難くない。これが後年、御館の乱で上杉景勝(政景の息子)が徹底的に栖吉長尾氏を討った遠因と考えられる。

アコーディオンメニュー:栃尾の観光施設の紹介

観光施設

リンクバナー:栃尾の名所旧跡の紹介

アコーディオンメニュー:栃尾の歴史伝説史跡の紹介

上杉謙信と栃尾

秋葉三尺坊(秋葉神社)

伝説

リンクバナー:栃尾の名所旧跡の紹介

リンクバナー:NHK大河ドラマ天地人特集、栃尾から見たもうひとつの天地人

リンクバナー:雁木と栃尾の町並みの紹介

リンクバナー:栃尾の宿泊交通の紹介

リンクバナー:栃尾観光マップ、ガイドブック

リンクバナー:栃尾観光協会会員紹介

リンクバナー:リンク集