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上杉謙信公旗揚げの地、
    新潟県長岡市

栃尾観光協会タイトル

◆軽井沢茨木童子伝承

1、伝承の概要

 お伽草子や絵巻物、能や歌舞伎の芸能などで、大江山の酒呑童子の片腕として、また「羅生門の鬼」として有名な茨木童子が生まれたという伝承が長岡市(旧栃尾市)軽井沢に語り継がれている。長岡市の軽井沢とは、新潟県のほぼ中央にある長岡市の東山連邦の中央に位置する山間の村落である。
 伝承によると、大同元年(八〇六)に、童子は軽井沢に生まれたと言う。生家(童子屋敷)は、門名を「西」といい、村の中心部に広大な敷地を有した豪農であった。
 十四ヶ月、母親の胎内に留まり生まれたという生誕逸話は、生まれながらにして人の子のルートから逸脱し、神がかり的な人知を越えていたことを際立たせている。加えて生まれ落ちたときは、髪長く、眼光鋭く、牙が生え、強盛なこと既に成人をも越えていたという。幼年期を迎えると利発で絶世の美男子へと変貌する。成長するにつれますます美しく、才気溢れ、腕力も他に比較する者もなかったという。
 童子の美しさに言い寄る女性は数知れず、恋文・投げ文のたぐいは絶えることがなかった。そこで、童子の行く末を案じた両親は寺に相談し、泣く泣く越後一宮・弥彦神社に稚児として上げることを決意した。弥彦で寺の仕事をする傍ら学問や妖術を習う。一時帰郷した童子は、生家の押し入れの中から母親が桑折に密かに隠していた山のような恋文を探し出し、一気に読みふけった。特に関心を引いたのは、「血塗りの恋文」であった。それは童子に恋い焦がれたある女性の怨念が、恋文の文字を血潮に変えたものであったという。何気なしにそれを指先につけて一舐めした童子は、たちまち身体の奥底から異様な活力が溢れ出て、自分でも押さえきれぬ大きな衝動に突き動かされ、着ていた着物を自ら切り裂いた。その端麗な容姿はみるみる醜い鬼の形相と化し、いろりの「かぎ様」をつたい昇り、天井の梁をつたい、破風(煙り出し穴)を蹴破って宙に舞ったという。童子が鬼と化した時を同じくして、同様に数奇な運命のもと鬼と化した国上寺の待童・酒呑童子(西蒲原出身)は、寺から追われ、既に親交を結んでいた茨木童子の生家で合流し、屋敷内の窟で一時共に暮らし、その後、鬼倉山の洞窟に移り棲み、村中を荒らし回り悪行の限りを尽くしたという。そんな破天荒な我が子の悪行に堪り兼ねた母親は、童子の幼着を身に纏っての命を引き替えにした涙の制止に、童子は無言で応え、村に再び戻らぬことを約束し、軽井沢から去ったという。
 幾年月が経過し、都から来た旅人の一夜の語りから、京で活躍する鬼の話を聴き、ああ、あれが我が村の茨木ではないかと思い、それが英雄誕生秘話を引き寄せて、今日に伝承されているのである。

2、軽井沢茨木童子神社建立の意味

 「軽井沢茨木童子」を御神体として祀ることの今日的・将来的な意味を考察すると以下のことに至る。
 「祀りしこと」こととは、童子の持ちし優れた霊力を尊び、私たちの祖先末裔にその力のご加護が授かることを祈念するものである。ここでいう童子の優れた霊力というものは、「知恵」の二文字をキーワードとしたものである。
 軽井沢の地に生を受けた茨木童子が、その他の鬼一族と隔たる大きな特徴は「四本指」にある。
 ご存知の通り人間は「五本の指」を持ち、鬼は一般的に「三本指」であるとされている。三本の指とは、嫉妬深く、邪悪で、憎しみに満ちているという意味を示している。昔から「四本指」を継承している者たちの代表には、「烏天狗」と「河童」、そして「茨木童子」である。四本目の指の意味は「知恵」であり、三者に共通していることは、並外れた「知恵」を授かった者たちであったということである。その中でも茨木の霊力「知恵」は群を抜いており、「五本指」の人間をいとも簡単にだましてしまうほどの力量を発揮して、そのことを誇ることもなかった。謙虚な賢人だったといえる。河童は自らの失態で人間に捕らえられ、叱責され、様々なところに「詫び状」を残して笑い者にされている。河童が人間を超えたという異聞は耳にすることがない。一方烏天狗は、幼少時代の義経(牛若丸)の武術指南役として姿を見せたが、一貫して人間界との接点を持たずに、天狗の下僕として現在まで異界で生き続けている。
 渡辺綱や源頼光に代表される童子と人間の競い合いを、つぶさに検証すると、五本の指を持つ人間のおごりへの戒めとして、警告を発したと思われる行為の数々である。それらの行為は、人間の心理を巧みに読みとり、感情・愛情などの、一瞬のこころの隙間に入り込み、相手を卑劣な暴力で押さえつけるのではなく、「知恵」で諭すという童子の固有の手法によるものである。
 今後、私たちが、未来永劫に、孫子の世代へと伝承していきたいものは唯一つ、童子のこのような「知恵者としての優れた霊力」に敬意を表しつつ、それにあやかろうと願うことに神社建立の本意がある。

3、豆知識

◇出生秘話
 大同元年(806年)14ヶ月母の胎内にとどまり誕生したという英雄や豪傑伝説に多い出生秘話がある。生まれながら人のルートから逸脱し、神がかりや超人としての烙印を得る。加えて牙が生えていた特徴も添え、頭髪は長く、眼には鋭い光があり、強盛なこと既に成人を越えていたとする。しかし幼年期はその対極を際立たせ、利発で容姿も美しく絶世の美男に変貌する。イメージとしては、牛若丸的な中性的容姿型か、金太郎的健康児型のいずれかと思われる。

◇童子の生家
 古志郡荷頃村大字軽井澤(現在の長岡市軽井沢)、門名を『西』と言い、家主は茨木善次右ヱ門。茨木六左ヱ門の次男として生まれる。西の家は現在も軽井沢にあり材木店を営んでいる。

◇「鬼倉山」(海抜617M)と洞窟
 鬼倉の中腹に、酒呑童子と共に暮らした岩屋が現存する。しかし南向きの絶壁にあり人が近づけない所であり、窟の広さは六畳くらいの広さで、明り取りの小窓もあるという。昔、鬼倉は、山肌を露出した石山であり、沢で砂金もとれ、六才石(水晶?)と金が採掘されたという。

◇窟籠り
 酒呑童子が国上寺の住職に破門された後、しばらくは軽井沢の童子屋敷内にあったという窟に居候し、その後、鬼倉の窟に移り住んだという。「窟」とは、山中他界観の信仰対象でもあった。窟は霊が集まる場所として信じられ、それゆえに窟籠りは霊と交わり、霊力を身につける修行として重視された。二人が学んだものは「邪法」であり、最強の霊力を手に入れた。

◇破風
 破風とは、屋根の切妻にある合掌形の装飾板。また、それが付いているところ。童子が蹴破って外に出た破風とは、茅葺きの家の「煙出し」である。童子は「かぎさま」をつたい破風を蹴り破り外に出た。破風を蹴破る行為は、通常でない出入口から出入りすることであり、人間の力の範囲を遥かに超えた世界を意味している。

◇「屋敷跡」と「童子清水跡」
 屋敷跡の中央に清水跡がある。昭和の始めには、丸作商店のバス停あたりに「童子清水」があった。現在、屋敷跡は県道に二分され源泉は絶えた。杉木立の土地は石垣に囲まれ周りより一段と高い。家は幾度か火災にあった。石垣は不揃いで切断面も朽ちていて時代が感じられる。

◇お椀・草履と足拓本
 明治22~3年までは、童子が使用した『お椀』も残っていたし、『草履』と『足の拓本』は、1953年夏までは西の家に代々引き継がれていた。

◇童子の「ほこら」
 「ほこら」とは、石造りの小さなお堂である。ほこらは、童子の行いを戒め、童子にまつわる田地の耕作を禁止するものではない。童子が母に「二度と帰ってくるな」と言われ村を離れて幾年月が経ち、いつか帰って来るものと期待していたが帰らなかったので、旅に出た日を命日として建立したという。現在は、移築した西の家の敷地内の松の下にある。

◇『稚児清水』
 古街道を少し降りた峠の中腹に山清水が湧き出ている。この湧き水を『稚児清水』という。この清水の命名には、国上寺と弥彦神社の稚児に上がった茨木と酒呑が、力競べをして兄弟の契りを交わした水と言われ、別に「八十水」とも呼ばれている。現在、新しく建立された『軽井沢茨木童子神社』の力水として、稚児清水は蘇っている。稚児清水川の源流である。

(文責・佐藤秀治)

※軽井沢地区に「茨城童子の里」としてあった「木彫りの子鬼を祀った祠」茨城童子の里(水害で流出)水害で流出と「稚児清水湧水」は、水害によりすべて流され、現在は何も史跡はございません。

地図は「茨城童子の里」があった場所です。現在は何もありません。

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