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上杉謙信公旗揚げの地、
    新潟県長岡市

栃尾観光協会タイトル

◆源義経にまつわる伝説

【1】音羽御前と瑞雲寺・羽黒神社

 音羽御前は、福島県飯坂の大鳥城主・佐藤基信の妻で、源義経の忠臣知られる佐藤継信・忠信の母親です。音羽御前が息子たちの安否を尋ねて旅に出て、ここ栃尾の小貫に瑞雲庵を結んだことが瑞雲寺の始まりと伝わっています。

(1)瑞雲寺
 継信・忠信兄弟の安否を尋ねる旅に出た音羽御前は、出雲崎・寺泊に草庵を結び日ごろより信仰していた羽黒大権現(十一面観音)を祀りました。そこで源氏が大勝したことを聞き「袈裟」をまとったまま踊ったことから「佐渡おけさ」などの民謡『おけさ節』が生まれたといいます。ところが継信は屋島の戦いで忠信は京都で壮絶な最期を遂げました。その知らせを聞き、悲嘆に群れていた音羽御前の枕元に、羽黒大権現が現れ「この近辺に霊場がある。その地に我れを祀れ」とお告げがあり、文治3年(1187)、栃尾の小貫に侍仏堂(瑞雲庵)を建て羽黒大権現を祀って供養しました。以来、その霊験あらたなることが広く知れ渡り、方々から人々が参詣に訪れ、上杉謙信公も栃尾城在城のおりには、度々参篭したと伝わっています。
その後、瑞雲庵は寛永10年(1633)に禅僧を迎えて瑞雲寺に改称。開基・檀越は阪神電鉄やアサヒビールの創始者・外山脩造を生んだ肝煎りの外山家。伽藍は築300年で江戸時代初期の禅寺の豪壮な禅宗形式を今に残します。

(2)羽黒神社
 羽黒神社は音羽御前が帰依した羽黒大権現の本尊(十一面観音)を祀った外山家の屋敷神でした。外山家の私社であった羽黒神社が村々の鎮守となって、享保12年(1727)現在地に建立されると瑞雲寺が別当となり同社を管掌しました。明治維新を迎えると神仏分離令が施行され、瑞雲寺は羽黒神社の別当を辞任し、本尊や鰐口などの仏具は瑞雲寺に移転され現在に至ります。
 おしくも当時の社殿は江戸時代末期に焼失、現在の社殿はその直後に建立されたものです。社殿の向拝と本体をつなぐ海老虹梁に雌雄の竜がまといついた彫刻が施されています。境内には市文化財の大欅や樫木があり、外山修造の墓碑が建っています。
 かつての祭日には近郷から多くの参詣者で大変な賑わいでした。

【2】静御前の墓と高徳寺

 栃堀の高徳寺境内と地続きの林の中に、古い宝篋印塔(ほうきょういんとう)があり、源義経の愛妾・静御前のお墓だと伝わっています。
 静御前は奥州平泉に逃れた義経を追ってここ栃尾の栃堀までたどり着いたが、病により建久元年(1190)4月28日亡くなりました。残された二人の従僕は、村人と話し合い埋葬し塚を建て、ふもとに草庵を結び「松寿庵」と名付け、剃髪し菩提を弔いました。
 後に、このことを鎌倉将軍・源頼嗣の知るところとなり、建長寺の開山・蘭渓道隆を下し「松寿庵」の場所に堂宇を建て「松寿峯耕徳寺」と名付け、永く冥福を祈るために周囲に15町歩の土地を寄進しました。また蘭渓道隆は静御前に「源貞院松寿妙栄大師」の法名を送りました。寺には蘭渓道隆直筆の位牌や静御前の遺物がありましたが戦乱の中で焼失したといわれています。その後、山腹に移転し「高徳寺」と改名されました。

【3】那須与一

静御前の墓から刈谷田川対岸の赤谷を眺めると那須与一が住んだという館跡、「古戸が池」(現在は水田になっている)があります。
 屋島の戦いで平家の女官のかかげた扇を見事に打ち落とした弓の名手、那須与一は讒言により流され、後に栃尾に移り住み赤谷の古城に居を構えました。彼は讒言が偽りであったことからやがて故郷の那須郷に帰ったが、息子夫婦はこの地にとどまりました。やがて二人に子供が授かったが、産湯を水屋でつかわした穢れから一夜のうちに館が水没して、その跡に大きな池、古戸が池ができました。満月の夜になると赤ん坊を抱いた母親の亡霊が湖上に現れたといいます。

(文責・石田哲彌)

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